2012年2月11日土曜日

130 「人生3万日」と「明日できることを今日やるな」というトリック

夜明け前。「今日」が始まるような、この時間帯が好きだ。

2012年1月の初め、堀正岳(@mehori)さんのサイトで、「「人生3万日」だと思ってはいけない」という記事を読み、深く考えさせられた。
そこには、堀さんのお義姉さんが、わずか2ヶ月ほどの闘病の末亡くなったことに対する思いが綴られている。
平均寿命の82歳から導き出される3万日という数字に一喜一憂する人々に対し、堀さんはかぶりを振るという。
義姉の人生はその半分ほどにしか達していませんでした。人生3万日などという数字は、どこにも存在しない嘘なのです。それは「平均値」という算術処理の結果うまれる虚像で、私とあなたを足して二で割ることができないのと同じくらい、ミスリーディングな数字といえます。
これは、あまりにも早い死を迎えた肉親をもつ人であれば、共通する思いではないだろうか。ただ、その思いもうっかりしていると時とともに風化してしまうということを、この記事で思い知らされた。

自分も若いときに肉親の死に直面したほか、自分自身も健康診断で「ガンかも。それも末期」と言われて愕然とし、残された日数を数えて絶望の淵に立たされ、一日一日の大切さを痛感したという体験がある。幸い、末期でもガンでもなく良性腫瘍だったのだが、それから生き方が変わった。まず他人を優先することをやめ、今自分がやりたいことをやろうと思った。

こんな体験がなくとも、朝玄関を出て外に出たとたん致命的な事故に遭遇する可能性は、誰にでも同じくらいあると思う。人はそういうことを意識せず、いつもと同じ日常が繰り返されると確信している。もちろん自分も、自戒を込めてこれを書いている。それくらい当たり前に「今日」という日が連続し、それが3万日あると無意識に確信しているのだ。

人生には、残り3万日にやってくる「明日」などないのです。人生は常に「今日」しかありません。「今日」を最大限生きてください。「今日」を無駄にしないでください。「今日」を感謝してください。「今日」がいつかこなくなる、その日まで。そのことを、今私は義姉の人生からあらためて学んでいます。

この叫びにも聞こえるような文章を、喉の奥にこみ上げてくるものを飲み込みながら読んだ。
だが、自分には「今日」という区切りも長すぎるのだ。
それは以前のエントリでも書いたが、耳の持病があり、いつ何時めまいで倒れるかわからないということから起因する。普通に歩いていて突然、めまいに倒れて動けなくなる。こういう体験を繰り返していると、「今日」ではなく、「今この瞬間」が大事に思えてくるのだ。



「マニャーナの法則」という本がある。サブタイトルに「明日できることを今日やるな」という文言がある。
この本自体はとても興味深く読んだ。特に各章にあるテストとアンサーという部分が秀逸だと思う。
だが、自分がどうしても相容れなかったのが、この「明日できることを今日やるな」だった。

耳の持病のため、前の晩までは元気だったのに、目が覚めたら起き上がれないくらいのめまいに襲われ、仕事を休まざるを得ないという経験を何度かしていると、「これ、明日でもいいかな?」ということができなくなる。「明日のために、今日やっておこう」と、明日への保険をかけるわけだ。

この本で言わんとしているのは、「今日優先すべきことがあるのに、明日できることをわざわざ今日に持ってきてやるな。さもないと、仕事がいつまでたっても終わらないぞ」という意味なのではないかと思う。それが「明日できることを今日やるな」という表現になったのだと。
だが、これは健康な人だからできることだと思う。いつ爆発するか本人もわからない、時限爆弾のような持病を持っている人には少々辛い言葉だ。
もちろん、そんな自分でも、明日のためにムリして今日の中に詰め込むことはしない。「今日のタスクに余裕があったら」という前提である。でないと、かえって持病が爆発する。

「人生3万日」に戻る。
こういう体験を通して、自分も堀さんと同様、伝えたい。「今日」を、できれば「今この瞬間」を大事に生きて欲しい、と。過去を悔やんでいる時間も、未来を思い悩む暇すら惜しいのだ。「今」を楽しんでいこう、と。

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