2015年5月24日日曜日

1116 本屋で探検30〜「空中都市」(小手鞠るい:著)

「不定期に本屋さんに行き、知らない作家の本を少なくとも1冊は買う」というルールに則って紹介する第30回目。
今回は、小手鞠るい:著「空中都市」です。

「空中都市」というタイトルに惹かれて手に取りました。空中都市というとペルーのマチュピチュですが、この小説でも登場人物のひとりがマチュピチュまでの旅をします。

物語は、中学生の娘・晴海と母親・可南子が春休みにニューヨークまでの旅に出ます。そこで娘が「高校に行くのは無駄。働く」と言い出して口論する場面から始まります。
一息つくために「コーヒーを買ってくる」と言った可南子が戻らずに失踪。晴海は「もうひとりで生きていける」と啖呵を切った手前泣くわけにも行かず、翌日に予定通り一人で帰国の途につきます。
帰国すると、元来おっとりとした性格ではある父がやけに落ち着いており、徐々に可南子の失踪が計画的な別行動であったと晴海は気づきます。
この母と娘のふたりの主人公の行動を交互に描かれ、物語が進行していきます。

晴海は映画のエキストラのバイトで知り合った助監督の助手の21歳の男に恋していて、この男の影響で「高校に行かずに働く」と言い出したきらいがあります。
男に流されるように夜中に出かけようとしたところで父が帰宅したり、一線を越えそうになった時に父からの「ぎっくり腰になって動けない」というSOSの電話があったりと、15歳の女子でしかも無菌培養的に育てられたような子がタイミング良く救われるというのもやや作り話的と感じたのですが、「いや、小説だからそれもアリ」とほっとした場面でした。のほほんとしたお父さんのキャラがひときわ輝いたシーンでもありました。

一方の母・可南子は、遺跡近くの町で高山病に苦しんだりしながらもマチュピチュを訪れ、遺跡を一望できる山に登ります。
可南子は今の娘と同じ頃にフィギュアスケートの選手をしており、ペアを組んだ流(ながる)に思いを打ち明けられぬまま、約束したこともお互いに忘れてしまっただろうと思いながら、別々の道に進みました。

実は流は6年前にマチュピチュを一望する山に入ったところで失踪(たぶん死亡)し、後日、彼の妻からその直前まで書かれた日記を手渡されます。「いつか流を連れて帰ってくる」と彼の妻に約束した可南子は、日記に書かれたとおりの行程を踏み、6年前の入山記録ノートに流の名前を見つけ、空白だった下山時刻を記録し「一緒に帰ろうね」と心のなかでつぶやきます。

読了してみると、やはり年齢の近い可南子に共感していました。
見失ってるもの、過去に蓋をしてきたものに向き合うということ。旅という異空間を通して「自分を探す旅」ではなく、日常から遠ざかって振り返る、足元を見る旅というのはある時期には必要なんじゃないかと思わせる物語でした。
それは周到に用意されたものかもしれないし、ふと思い立って出かけるものかもしれない。行ってから「ああ、この旅行ってそうなんだ」と気づくこともあるのではないかと。読後、なんだかそんな旅がしたくなりました。

そして読後に思ったことがもうひとつ。「何かやらなきゃなぁ」という後悔とも懺悔とも弱々しい意思表示とも取れるような感覚でした。

スケートのコーチも辞めて、昔からやりたかった小説を書くことを始める前に旅に出て戻らなかった流。
可南子はその旅をトレースし、旅の最後でこう思います。

山をおりていきながら、私の「これから」について考えた。私も新しい1ページを開けて、物語を書いていきたいと思った。(中略)毎日積み重ねていく、日常という名の物語。
その物語のなかに、私は再び、「スケート」を書き込みたいと思い始めていた。かたくなに閉じてきた記憶のふたをあけ、閉じ込めてきた過去を解き放ち、冒頭に戻って、私も滑り始めよう。どんな形のスケートが、これからの私にできるだろう。たとえば、子供たちにスケートの楽しさを伝える。たとえば、スケートの魅力を紹介する本を書く。そういう作品を翻訳する。どんな形でもいい、私がスケートを忘れず、スケートとともに生きることで、私たちは流と、つながっていられるのではないか。

ここを読んではっとしました。やりたいこと、やってきたことそのものじゃなく、それに関連することをやってみるという発想はなかったですね。

さて、物語は父も含めた親子3人で夏休みにイタリア旅行を計画する場面で終わります。ここで娘の晴海は母の可南子に意趣返しをしようともくろみます。もちろん例の男がらみで。まるで自分の娘のようにハラハラさせられる晴海の行動の結果は?
このお話の続きはあるのでしょうか?

ちなみに、文庫末尾の解説によりますと、この前段のお話が「ガラスの森」「はだしで海へ」として発表されているのだそうです。これらを読まなくてもわかるように作者は配慮していると解説者が語っているとおり、「空中都市」だけでも十分楽しめる作品になっていました。

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